ファミリー

 

私には二つ上のお兄ちゃんがいる。対等に話せていたのは恐らく10歳の頃が最後。小学3年生のお正月、私は家出をした。だからそれ以来ほとんど会っていないし、会っても人見知りをしてしまう。せっかく兄妹がいるのだからもっと助け合った方がいいと母は言う。いつからか誰にも頼らないで生きていきたいと思うようになった。

両親がいて、兄弟がいて、絵に描いたような幸せな家庭。なんてものはなく、常に家は荒れていた。私にとってはそれが当たり前だったし、今更自分を可哀想だとは思わないけれど、ふと思い出した時に、やっぱりちょっと可哀想だったかもと思う瞬間がある。それくらい寂しい思いをしていた時期があった。

環境を言い訳にはしたくないけれど、人格編成において環境はやはり大きな影響を与える。家族とコミュニケーションを取りながら暮らしてきた人は、やはり人間としてちゃんとしているように見えた。自分の中にある正しい人間像がそういう"真っ当な人生を歩んでいる人"になっていったせいか、自分は毎日間違いばかりをしているような気持ちになった。

友人の家族を見ていると、やはりみんな親から何かしら影響を受けているのがわかる。本人にそんなつもりはなくても、性格や喋り方、生き様がだいたい親と似ている。そういった意味では私のお兄ちゃんもしっかり親と似たような人生を歩んでいた。ヤンキーの子供はヤンキーに育ってしまう。途中で逃げ出した自分は、誰にも何にも染まらず、よくわからないままここまできてしまった。親の影響でハマった趣味や得た人生観は一つもない。当たり前のようにみんな家族と趣味を共有しているけれど、自分にはそれですら夢みたいな話に聞こえていた。

両親とたまに会う時がある。だけども10年弱しか一緒に暮らさなかったからか、2人とも私の幼少期の頃の話しかしない。小さかった頃の私しか知らないのだと思う。母は何かと思い出を美化して話す。熱心に子育てをしていた時の話をしてくるけれど、私にはその母の姿が記憶にない。どちらかというと、部屋に閉じこもってこちらに見向きもしなかった母の背中の方が印象に残っている。ここには書かないけれど、幼いにしてはショッキングな場面にばかり遭遇していた。どんなに小さくても、脳が発達していなくても、わかるものはわかる。楽しかった出来事はすぐに忘れてしまうけれど、辛かった出来事は大人になっても覚えている。父は昔の後悔をよく口にする。私が3歳くらいの頃両親が別居していた時期があった。父とは週一で会っていて、その帰り道車の中で私が泣きだすと、父も静かに泣いていたらしい。全く覚えていないけれど、なぜか悲しい気持ちになって俯きながら話を聞いた。

家族との時間を大切にとは言うけれど、すべて今更なような気がしている。両親は今からでも私との思い出を作っていきたいのだろうけど、私はもう成人しているし、親の思い通りにできる年齢ではない。子供と暮らせなかった親の後悔や葛藤はなんとなくわかるけれど、親と過ごさなかった十数年間がやはり大きくて、どこか他人事のように感じている自分がいた。

職場の人と一人暮らしは楽しいか否かの話になったとき、みんな口を揃えて寂しいと言った。私にはそれが理解できなかったけれど、これが私の生きてきた中で得た人生観の一つなのだと思う。生きやすさで言えば生きづらい人間に分類されるのだろうけど、自分のことはそんなに嫌いではない。変わった環境で育ったおかげで人と違う話ができるのはラッキーだ、くらいに思っている。どんなに酷い場面がフラッシュバックしても、みんなの話がわからなくても、なんとかここまで生きてきた。

しがみつくものがない人生は一周回って生きやすい。